「細井和喜蔵の文学について」


細井和喜蔵の文学について

「和喜蔵を顕彰する会」 松本満

はじめに

 高校の教科書や副読本に登場する、丹後地方出身の文学関係者は、平林初之輔(弥栄町出身)と細井和喜蔵(加悦町出身)である。平林は、プロレタリア文学の初期の理論家として、比較的詳しく編集された文学史の副読本には、たいてい出てくる。しかし、細井は、国語関係の教材にはほとんど出てこず、現代社会や日本史の資料集に、『女工哀史』の著者として多く紹介されている。作家というより『女工哀史』の〃著者〃なのである。むしろ一般には、「女工哀史」という〃言葉〃のみ知られていて、〃著者〃はほとんど無名に近いというのが実情であろう。
 細井和喜蔵は、1922年(大11、25歳)ごろから1925年(大14)8月、28歳の若さで病死するまでの約3年間にわたって、『種蒔く人』や『文芸戦線』などに、詩、小説、戯曲、評論を発表し続けた若き労働者作家であった。彼が文宇通り命を削って書き上げた『女工哀史』が改造社から出版されたのは、その死のわずか一力月前であり、『女工哀史』の小説版である『奴隷』、『工場』が出版されたのはその死後であった。
 なんといっても、彼の生涯はあまりに短かった。貧しさゆえ小学校を5年で中退して、働きながら独学で、しかも、中途から文学を志した彼の才能が、十分に開花したとは言い難い。しかし彼は、『女工哀史』以外に、「モルモット」などの完成度の高い短編小説や、『奴隷』、『工場』など行間から自らの労働体験がにじみ出るような優れた描写からなる長編の作品を残している。『親』、『無限の鐘』などの佳作戯曲もある。これらは、専業作家でない労働者の生み出した文学として、もっともっと評価され、読み継がれていいと思う。ところが、『女工哀史』があまりにも有名になったことも手伝ってか、細井の小説や戯曲などについては、ほとんどといっていいほど研究も評価もされずに今日に至っているのである。さて、私自身は、加悦町に住むようになってから初めて細井和喜蔵について知り、その顕彰事業にも加わるようになった。1997年、生誕百年を迎えたのを機に、細井の出身地である丹後に住む者の視点から細井の再評価を試みようと思い立った。以来、細井の作品を読み直したり、資料の収集をしたりする中で、いくつか気づいた点がある。以下それを、特に彼の小説と戯曲について述べてみたい。

丹後が生んだ作家細井和喜蔵

 細井は、自らの故郷に寄せる思いを、『女工哀史』の中で、こんなふうに述べている。「山川幾重、遠く父母の膝下を離れて来た彼女たちに、ホームシックな感情が多分に宿っていることは、極めて当然である。ほとんど故郷を持たぬ男の私でさえも、唯だ生国というだけで丹後がなつかしいのに……。」 「ほとんど故郷を持たぬ」というのは、この時すでに故郷加悦町は、彼にとって身寄りもなく、帰るべき家とてない、遠い存在となっていた事情を踏まえた表現だと思われる。だからこそよけいに、細井にとっては丹後は「なつかしい」故郷なのである。
 しかし、この部分は読み方によってはこうも読める。「丹後は私にとってただ生国というだけの存在で、私は故郷を持たぬ(捨てた)男である」と。細井のこの故郷への相矛盾する思いは、自伝的小説「奴隷」のなかにもっと鮮明な形で表れている。
 細井は1897(明30)年生まれで、父は彼が1歳のころ細井家から離縁され、母は6歳の時に入水自殺を遂げて、祖母に育てられた。しかしその祖母も13歳の時に病死して、彼は尋常小学校5年で退校を余儀なくされた。その後上隣の大きな機星の小僧となったのをはじめとして、近隣の機屋や、そのころ出来たぱかりの電気会社などを転々としたようである。おそらくは19歳の前後に故郷加悦谷を捨て、大阪に出るまで、彼は家庭的な不幸と貧しさゆえの、あらゆる苦難とみじめさとそして悲しみを味わったのである。『奴隷』の前半は、その間の体験を元にして書かれている。
 『奴隷』の主人公江治が、故郷加悦谷を脱出し、大阪での成功を夢見てこの地を去るときの思いが、次のように描写されている。
 「此の地に住む人々は何時も彼を侮辱し、虐げ尽くしたけれど、美しい自然は決して彼を虐げることも侮ることもしなかった。」
 そして「奴隷」には、細井が実際に小僧として住み込みで働いていた実家近くの機屋が実名で登場し、主人公や女工たちが「侮辱」され、「虐げ」られた生々しい実態がリアルに描かれているのである。
 誰しも自分の住む土地に関して悪く描かれていることを、快く思う者はいないだろう。それが、この土地を「捨て」て出て行った者によって描かれているならなおさらのことである。細井のこの小説が、地元の人々の中に複雑な思いをいまだに残す原因となったことは否めない。
 一方、細井は『奴隷』の中で、美しい丹後の自然を繰り返し繰り返し描いている。主人公の身の上は苛酷で悲惨だが、自然は明るく限りなく美しい。細井は、暗い自らの幼少時代のイメージを、まるで明るい絵の具でぼかすかのように、澄明な自然美を描いた。その明るさと美しさは、彼の暗く惨めな生活体験と、いわば対をなすもので、そのニつの相反する故郷への思いが、彼の文学的創作の原点となったのではないだろうか。細井は一般には、19歳前後に加悦谷を出てから二度と帰ることはなかったと想像されている。しかし、地元の郷土史家杉本利一氏によると、彼は帰郷したと推定できる。『奴隷』の主人公江治は作中で祖母に、「おばあ、僕なあ大阪へ行って成功したら屹度間違のう戻ってきて、何は放っといても真っ先に石塔だけは建てたげるさかい、それまで我慢しとうくれよ。」と約束しているが、現実にその石塔が存在しているのである。細井の生家の裏山に、母と祖母の二人の戒名を並べて刻んだ墓碑がひっそりと建っている。このような墓碑を建てる身内は細井和喜蔵以外にだれもいなかったはずである。彼はいつか帰郷し、祖母との約束を果たした。そう考えるのが自然である。確かに故郷加悦谷は細井にとってつらい思い出ばかり詰まっている土地である。しかし、彼は心の中で決して故郷を捨てることはなかった。私はそう考えている。
和喜蔵の母と祖母の墓碑

 細井は25歳の時、同じ職場(東京モスリン亀戸工場)の女工だった堀としを(のち高井姓)と結婚し、彼女の献身的な協力によって『女工哀史』を執筆した。今は故人となったとしをさんは、戦後何度か加悦町を訪れている。私も一度お出会いしたことがある。細井はよく加悦谷を懐かしんでとしをさんにも話して聞かせたそうである。としをさんが細井の生家を訪ねた時の歌である。

 和喜蔵の生まれし家に来てみれば祖母にくくられたと云ひし柿の木太く

 加悦谷は丹後ちりめんの中心産地のひとつである。(現在は不況の大波の中にあって苦境に立たされており、細井が命をかけて訴えた繊維労働者の苦しみは別の形で存在している。)細井が少年時代を送ったころは、丹後に初めて力織機と石油発動機が導入され、電灯がともるようになった時期であった。「遅がけ乍ら此の山陰の僻土へも産業革命の余波が打ち寄せて来」(「奴隷」)て、丹後機業は発展期を迎えつつあった。細井は機屋でただ虐げられていただけではない。機場にある石油発動機(オイルエンジン)と紋織機械(ジヤカードマシン)は彼に限りない興味を呼ぴさました。彼が天性の器用さと勉強熱心とによって、織機を扱う優秀な機械工になる素地が既に少年時代に培われていたと思われる。彼の故郷は、彼に「女工哀史」への道を準備した。
 丹後は和喜蔵文学の原点と言っていいと思う。細井は故郷を脱出したが、それは「故郷を捨てるべく余儀なくされた」(『奴隷』)のである。彼は生涯故郷を壌かしみ、彼の文学には郷土の香りがする。

『無限の離』はなぜ書かれたか

 細井は、丹後を舞台とした戯曲を二つ書いている。『親』と『無限の鐘』である。『親』は、金持ちで地主でもある「分限者」の支配に苦しむ家族と、そこから脱出して自立しようとする少年の姿を描いたもので、『奴隷』の前半部分と重なるテーマを扱っている。『無限の鐘』は、宮津市の成相寺に伝わる「撞かずの鐘」伝説に取材した民話ふうの物語りで、細井の他の作品に比べてやや異質な印象を与える内容となっている。
 この二つの戯曲は、細井の相反する故郷への思いを象徴するようである。前者は、貧しい者の暗く惨めな生活現実を描き、後者は、貧しい者が救われる理想社会を描いている。全体の印象として前者は暗く、後者は明るい。
 細井は、「自らの体を破壌に陥し入れる犠牲を甘受しつつ、社会の礎となって黙々と愛の生産にいそしんでいる『人類の母』(『女工哀史』)たる紡績女工達が、あまりにも苛酷で悲惨な労働生活を強いられていることを激しく憤り、その実態を広く社会に知らせるために筆を執った。『女工哀史』以外の彼の多くの作品の底流にも同じ思いがある。『親』も別のテーマを扱ってはいるが、同じ系列に属する作品と言っていい。ところが、戯曲『無限の鐘』(と、彼の機械や発明への興味から生まれた作品)は、そういつた作品の系列からはずれたものとなっている。
 『無限の鐘』の舞台は江戸時代の丹後(天橋立)である。府中成相寺の僧永観は、村全体に幸福をもたらすという「無限の鐘」の鋳造を発願する。永観はそれを口実に分限者達から多額の寄進を募り、それを村の貧しい者達に分配しようと考えたのである。鋳造の世話人達は、村人達にも心ばかりの寄進を訴えて回るが、おはつと勇三の百姓夫婦は寄進を断り、そんなに必要なら「此の泣く赤児でも持って行きなはれ。」と言うのである。鐘の鋳造は二度まで失敗する。三度めの鋳造をなんとしても成功させようと考えた世話人達は、永観には内緒でおはつ勇三夫婦の赤児をひそかに盗み出し、地金と一緒に溶炉に投げ入れてしまう。鋳造は成功するが、おはつと勇三は赤児が犠牲となったことを知り、その仇をうつために鐘をこわそうと苦心する。その「無限の鑑」は、分限者が一撞きすると、孫末代まで長者としての繁栄が約束されるというありがたい鐘なのである。永観は一撞きごとに千両を寄進させ村人に分配する。おはつと勇三は村人に幸せをもたらしつつあるその鐘の音の中に自分たちの赤児の声を間き、ついに鐘の破壊を思いとどまる。
 幕切れの部分のト言きの中に、作者はおはつと勇三の表情について、「(村全体のために小さな僧しみは捨てねばならぬ。といった表情。」と書き入れている。
 この戯曲は、二つの民話を下敷きにしている。一つは前述の、成相寺の「撞かずの鐘」伝説である。もう一つは静岡県の小夜の中山観音寺に伝わる「無間の鐘」伝説である。
 「撞かずの鐘」伝説は、右に紹介した『無限の鐘』のあらすじと同じ経緯で、鐘鋳造のための寄進を断った百姓夫婦の赤ん坊が、鐘の中に鋳込まれてしまう。(その経過は言い伝えによって差がある。)出来上がった鐘を撞いてみると、その音の中に赤ん坊の泣き声が聞こえたため、もう二度と撞くまいということになり、それが「撞かずの鐘」として今も成相寺にある、という話である。(『みやづの昔話ー北部編ー』宮津市教育委員会刊による) 「無間(むけん、後にむげんとも)の鐘」伝説は、旧東海道の日坂(にっさか)峠から金谷(かなや)へ出る坂道「小夜の中山」の無間山観音寺に伝わる伝説で、この鋳を撞くと現世においては裕福で自在の身となるが、来世は無間地獄に落ちると言い伝える。(『日本伝奇伝説大事典』角川書店刊による)
 この「無間の鐘」伝説は、丹後地方にも伝わっていたらしく、次のような話が残されている・
 大江町北有路(ありじ)に平野家という家がある。そのご先祖が小夜の中山の「無間の鐘」の話を聞いて、連れと二人で撞きに行った。連れは「裏山がある限り長者でいられますように」と言って撞き、平野のご先祖は、「末代まで長者でいられますように」と言って撞いた。連れは長者になったが、家を拡張しようと裏山をつぶしたために一代で滅び、平野は「末代まで」と念じたので末代まで統いている。平野家は田辺(舞鶴)藩や宮津藩の殿様の金親方で、参勤交代の折りなどはそこへ金を借りにいった。(「語りによる日本の民話一丹後伊根の民話一国土社刊による)
 戯曲『親』の中の登場人物の会話にも次のような話が出てくる。主人公三太の母のぶが「無限の鐘を撞くと百万長者になるちう話を聞いたことがあるが、……ひとつ試しについてみたいだよ」と言うのに対し、祖母おさつが言う。「とんでもないこと言うもんだない。なんぼ貧乏はしても、無限の鐘ついてまでウラア(私は)分限者にはなりたくないものだ。……無限の鐘をつくとな、貧乏人も一変に百万長者の大金持ちになれるそうだが、その代わり万劫末代孫子の末々まで、飯も、水も、醤油も、飲むものも喰うものもことごとくが蛭になってしまうそうだ。そんな怖ろしい鐘がつけるものか。」と。
 細井はこれらの話を、子供の頃おそらく祖母から聞いて記億していたものと思われる。彼はこれらを巧みに改変し、新しい民話を作り上げた。「無限の鐘」には由羅清左衛門(由羅清)という長者が登場する。由羅清はこの地方一帯を代表する富者であり、永観の要請に従って、鐘鋳造の費用の七割を負担し、三百町歩の田畑を奉納する。その見返りとして由羅清は鐘の撞き初めをする権利を得て、末代までの繁栄を保証されるのである。前述の言い伝えからして、由羅清のモデルは平野家であると考えても矛盾はない。
 ちなみに平野家は大江町の由良川のたもとに今もある。細井は、「由良川」から「由羅」を思いついたのかもしれない。子孫は現在は他府県に住んでおられるが、明治時代に建てられた広くて瀟洒な和洋折衷の建物は健在である。最近、町が買い取って「大雲塾」という名称の、地域の交流センターとして整備している。杉本利一氏によると、平野家は「りゅうげんさん」と呼ばれて、昔は加悦谷でもよく知られた存在であった。村内で山の入会権をめぐって紛争が起きた時など、殿様ではなくてりゅうげんさんに調停を頼んだそうである。またこんな俗諺も伝えられている。「有路のりゅうげんさんなどなりたもないが、せめてなりたや大名に」というのである。地方においても富豪層が大名よりも強い経済力を持っていたことをうかがわせる。細井がこれらのことを聞き知っていたかどうか定かでないが、はっきりしているのは、『無限の鐘』では分限者由羅清が貧者を搾取するだけの悪者としては登場していないことである。由羅清は成相寺の僧永観の要請に従って、莫大な資産を寄進する。無限の鐘の撞き初めをしても、無間地獄に落ちることもなく、食い物がすべて蛭になるわけでもない。ただ正月の雑煮が蛭になっていろらしいとうわさされるのみである。村人は富の分配を受けて飢えから解放される。貧者も富者も共に幸福を得るユートピアがそこには夢想されている。自分たちの赤ん坊を人身御供に取られ、復讐心を燃やしたおはつと勇三の夫婦も、最後には村全体の幸福の前には自分たちの憎しみは小さなものだと知る。労働者を虐待する工場・資本家を激しく告発した細井が、一方でなぜこのような物語を書いたのか。
 まず第一に、富が万人に平等に分配される理想的な社会のイメージの提示ということがあると思う。山田清三郎氏は全集の解説の中で、「一種のユートピア(理想郷)観が作の基調におかれている」のは「昭和以前の働く者の多くが抱いていた、共通の願望をあらわしたもの」だと述べている。紬井は「女工哀史」の末尾において、やや空想的な理想社会論を展開して」いる。執筆の時期はどちらが早かったか確定する資料はないが、細井の第一の目標が『女工哀史』であったことからすると、『無限の鐘』の方が後から書かれたと考えるのが自然である。だとすると、『奴隷』、『工場』が『女工哀史』の「自序」と「本文」部分の小説版であり、『無限の鐘』が「結び」部分の戯曲化であると見ていいのではないだろうか。『無限の鐘』の中で、永観は弟子の永念に自らの思いを次のように吐露する。「一ああ…どうかしてすべてを識る工夫はないものか。私は今すべてを識りたい。此の永観に今凡てを識ることが許されたなら、すくなくとも府中の土地は愚か日本全国から人間の不幸を根こそぎ絶やすわざが出来るだろう。いや日本は愚か此の世界中…(略)が、所詮それは許されない。(略)とりあえず今のところでは無限の鐘の完成によって、長者由羅清へ集まっている財産を村全体へ散らさにゃならん。」「平等という文字は(略)いくらこれが経巻に刷り込んであっても大きな声で唱えても、結局実行しなければ何の役にも立たないのだ。私は常に、自分の心にそういうている。」
 永観の考えは空想的ではなく現実的である。「無限の鐘」伝説では、幸福を手にした人間は、食べ物が蛭となるか無間地獄に落ちるか、なんらかの報いを覚悟しなけれぱならない。民衆にとって貧乏は宿命なのである。しかし、細井はそのような民衆の言い伝えや信仰を逆手に取り、悪い報いを受けることのない万人の幸福があり得ることをイメージとして提示したのである。 第二に、当時としては先駆的な主張であったと思われる、細井の「通俗小説論」の実践という側面が指摘できる。細井は、「ダンシング・ホールから観た田舎の盆踊りが芸術でなくても、田吾作と村乙女にとっては芸術だ。女工にとってはゲエテの詩よりも女工唄の方が遥かに詩だ。…これと同じようにどんな立派な芸術でも相手にわからなければ無価値だ。」(「プロレタリア芸術としての通俗もの」『文壇』1924年9月号)と主張する。細井は自らが13歳からずっと工場で働いてきた体験から、毎目十数時間働いて疲労とストレスをため込んだ労働者が、難しいものなど読む気にならないことをよく知っていた。だから真の「大衆文芸は童話的性質をもっている。(「通俗文芸の内容と表現」「都新間」1925年8月27〜30日〉というのである。
 紡績工場では職工慰安の催しとして時々芝居が上演されることがあった。彼女らはお涙頂載の「通俗的」な芝居にも、感激し涙を流した。そこに着目した細井は、ある時女工たちと共に社会劇をやることを計画し、まんまと工場側の許可を敢って実行したことがある。(「女工哀史」) だから、彼は演劇の持つ教育的意義を十分自覚していたはずである。『無限の鐘』は、『女工哀史』末尾に述べられた理想を表現するための、「童話的性質」を帯びた「通俗もの」として構想されたのではないだろうか。
 第三に、『無限の鐘』には彼の郷土に対する思いが感じられる。
 まず、「親」もそうだが、これにも全編の会話に丹後地方の言葉(方言)が用いられている。ただし、丹後そのままではなく、間きにくい(読みにくい)点を考慮してか、関東風の言い回しに改められているところもある。
 次に、細井がその風景の美しさを特に好んだ天橋立付近が舞台となっている。殊に成相寺からの眺めは日本三景の一つにも数えられ、「股のぞき」でもよく知られている。『奴隷』には天橋立と与謝の海を描写した部分が四力所も出てくるが、『無限の鐘』にも永観と永念がその景色を賞賛する場面が出てくる。さらに、細井はこの作品において、「美しい自然」だけでなく、彼を「侮辱し、虐げ尽くした」ところの「此の地の人々」(『奴隷』)をも受け入れ和解しているとも受け取れる。分限者由羅清の扱いや、おはつ、勇三夫婦がその復讐心を捨て去る描写などにそれがうかがえる。そこには、個人的な怨念から解放された思想の高みがあるのではないだろうか。

自伝的小親『奴隷』は、事実そのままか?

 『奴隷』の中には、前述のように細井が小僧として住み込んだ上隣の機屋の屋号−「駒忠」(こまちゅう−が実名で出てくることもあって、その前半部分はほとんど事実ではないかと考えられてきた。確かに大半は実際の体験に基づいていると推定される。しかし、詳紬に調べてみると重要な部分で創作が試みられていることがわかる。
 「駒忠」について見てみよう。細井がそこで小僧として働いていたのは事実であるし、女工達が工場の二階で寝拍まりして働いていたのも事実である。『奴隷』ではその工場が全焼し女工達が焼死するのだが、実際は地元にはそのような事実は伝えられておらず、創作であろう。また、『奴隷』では駒忠の且那が、加悦谷で初めて石油発動機と力織機を導入し、電気会社を興し、絽縮緬を発明し、それらの功績によって郡会の決議で記念碑が建てられたことになっている。しかし、それらは事実ではない。
 まず、絽縮緬を発明したのは駒忠と同じ加悦奥の人であるが、別人の細井三郎助である。絽縮緬は日露戦後大流行し、彼はその功績により1910(明治43)年(細井和喜蔵13歳)、加悦奥青山公園に記念碑が建てられている。一また、同じ1910年、加悦町に「丹後電気株式会社」を初めて設立したのは杉本利ヱ門である。最初のガス発電機による発電所が設置されたのは細井の小学校への通学路脇であり、機械好きの彼はきっとそれを興味いっぱいで見ていたに違いない。さらに、初めて加悦谷に発動機を導入したのは杉本治助である。彼は1908(明治41)年ドイツ製の発動機とスイス製の力織機五台を購入。これを機に加悦谷に「産業革命」が起こり、生産量は飛躍的に増大していった。(以上「加悦町誌」による)
        絽ちりめん開始記念碑

 細井はこれら三人の地元事業家による事績を、駒忠一人に擬している。つまり駒忠は実名ではあるが、作中の駒忠は作者によって創作された「駒忠」なのである。つまり細井は明治末から大正期にかけての資本主義の発達過程て、カをつけつつあった地方地主・有産階級の姿を、自分が景もよく知る駒忠によって形象化しようとしたといえる。
 細井はまた、『奴隷』執筆とほぼ同時期と思われる1924(大正13)年に発表した評論(「プロレタリア芸術としての通俗もの」『文壇』9月号)の中で次のように述べている。
 「プロレタリア文学は虐げられた一個の労働者が己一人幸福になるための努力を払ったり、或る一人のブルジョアに対して放たれたる呪誼であったりするものではなく、飽くまでも全無産階級のソリダリテイに基調を置いた相互扶動約、積極的進行の約束であらねばならぬ。」
 『奴隷』の中で、主人公江治がある夜遂に故郷を抜け出す時、村外れの石橋の上まで来ると駒忠の工場が見えた。そこの描写である。
 「…石油発動機と力織機の音が乱調子に響いて、永えの怨嵯(うらみ)を彼方の山へ刻んでいく…・。それは彼にとって限りない呪誼(のろい)であった。(略)江治は(おお!駒忠よ焼けてしまえ)と思った。」
 ここには江治の駒忠に対する激しい怨嵯、呪誼が述べられている。虐げられ蔑まれた十代の少年の心情としては当然のものである。しかし、江治は大阪に出て紡績工場で働くうち、考え方の上でも人間的にも大きく成長する。彼の個人的な怨瑳、呪誼は人類的な正義の実践へと高められていったのである。『奴隷』、『工場』の重要なテーマはここにある。『奴隷』、『工場』は、作者の個人的な怨念を吐露するために書かれた訳ではない。細井は一般の労働者が読んでよくわかり、面白くて共感を覚えるような文学を目指した。彼は労働者の覚醒と連帯のために、自らの体験を素材として生かそうとしたのである。

細井和喜蔵はどんな人だったのか
          
 加悦町加悦奥、細井和喜蔵の生家のすぐ上、加悦町中心部を一望できる鬼子母神の丘に、「『女工哀史』細井和喜蔵」と刻まれた記念碑が建っている。1956(昭和31)年、当時の加悦町長細井直義氏をはじめとする発起人の呼びかけで、全国的な「細井和喜蔵頭彰碑設立委員会」が発足し、全国的な募金運動が展開されて、2年後の11月に完成を見たものである。その間の協力者は数万人に及んだという。(「和喜蔵顕彰覚え書」杉本利一による。『郷土と美術』1986年10月秋期号)
 細井は、彼を直接見知る人によって、「和喜さんは利口な子でした。」「人好きのよい面白い子であった。」「なかなか腕白さんでした。」「和喜さんはええもんだった。」等と伝えられている。細井の元夫人高井としをさんは、「私の知っている細井は大変やさしい人でした。細井はよく人類の半分は女性である、その女性が解放されなけれぱ人類は救われない、と申しておりました。」と述懐している。(「細井和喜蔵の生家をたづねて」加藤宗一、「細井和喜蔵の作品と人となり」沢村秀夫による。いずれも『郷土と美術』1955年9月号)細井和喜蔵はどんな人だったのか。何を考え何を目指したのか。まだ未解明の部分が残されている。特に文学作品には検討すべき点が多い。それらについての考察はまた別の機会に譲りたい。

〈参考文献〉(文中に記したものを除く)
『丹後ちりめん物語』八木康散著 三省堂新書
『私の女工哀史』高井としを著 ほるぷ出版
「細井和喜蔵−その生涯−」野村隆夫 千葉商大紀要第三一巻所収
「細井和喜蔵と戯曲『無限の鐘』吉岡範之 京都民報1987年5月
「細井和喜蔵の文学(上)」岡野幸江 『大正労働文学研究6』1982年春号所収
(郷土史家 杉本利一氏に多くの教示をいただいたことを付記し、感謝したい。)

       (1999年 京都府立高校国語科研究会会誌に掲載した文章を再録しました。)


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